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GENKI FACTORY -HISTORY- 誕生ヒストリー

飲食業界で「浪花の妖怪」と称される今吉純一は、いかに元気ファクトリーを誕生させたのか。パリへの単身渡仏から始まるルーツ・ストーリーをご紹介します。

-HISTORY- 1

単身フランスのパリへ渡欧

私が飲食に興味を持ったのは、とても単純なんです。食べるのが好きで美味しいものを食べた時のあの気持ち良さ、自然と口から出てしまう「うまい!」の言葉、それを自分が与えられる人間になりたい、そう思ったからです。

私は中学を卒業し、食べるのが好きだった、ただそれだけで大阪あべの辻調理師専門学校に入学し料理の基礎となるべく知識を身につけました。19歳になり、まだ自分のはっきりとした目標が見つからず、「日本(大阪)という小さな街にいるから駄目なんだ!」なんて今思えばよく分からない発想をして、渡欧を決心、フランスのParisで下積みを2年間しました。

何を求めてParisに行ったのかもわからないまま、何もない日々を送っていた私は、とあるCAFEに立ち寄りました。実は今のどんどんの基本とも言うべきカウンターに出会ったのはここなんです。大道芸人の横でドラムをたたいてチップをもらうという生活を送っていた私は意外とその日暮らすには困らない稼ぎがありました。しかしそんな生活に飽きていた頃、ふと人のざわめきに誘われる様にそのCAFEに立ち寄りました。お客様とカウンター越しにファンキーな会話をしているおじさん(ギャルソン)を見て思わずカウンターでコーヒーを飲もうと決めたその時です。今でも忘れません。
髭をたくわえたおじさん(ギャルソン) が「サバ!(元気!)」 と声をかけてくれたのです。なんか映画のワンシーンみたい!って気がしました。何かに落ち込んでいた私は、心が蘇えるような想いを体全体で感じました。何気ない一言が一生心に残ることって誰しもあると思うのですが、私の張り詰めた心を一瞬にして飛ばしてくれたのはこのおじさん(ギャルソン)でした。そしていつの間にか日本に帰るまで、毎日のように通うようになっていました。

-HISTORY- 2

「喫茶ドン」とカウンター商売

日本に帰って来て、久々に大阪の街を見て私の中である思いが込み上げてきました。「CAFEのカウンターで私があのおじさん(ギャルソン)に元気をもらった様に世界中の人に元気を与えたい!」と。当時日本では、カウンターカフェは無くテーブル席の喫茶店が多かった時代で、常に新しい飲食をしたいと思う気持ちがあった私は「人が求めているものはこれだ! 必ずイケる!」と直感的な自信がありました。
歴史のあるフランスの次は勝気的なニューヨークを体感したかったのですが、幸運にも喫茶店をやるチャンスが舞込んで、考えたあげく「喫茶ドン」というパリ風でカウンター20席だけの喫茶店(今年で25年目突入! 今も元気に営業中!)を始めることにしました。
それが22歳の時です。
カウンター商売というのはお客様と距離がとても近く、いつも見られています。だから苦しい面もあるのですが、何よりお客様とコミニケーションがとれます。それが楽しくて、いつの間にか離れられない存在になっていました。そしてあっという間に10年が経ち、今度は接客の王道であるBARをやろうと考え「BAR DON'S」をオープンしました。「もっとお客様と会話がしたい」「楽しい気分になってもらいたい」そんな気持ちでした。
気が多く飽性な私は2年で引退すると最初から決めていました。だからBARを始めたときから次の事を考え、焼肉,串焼き、らーめんの様な専門店をやると決めていました。

-HISTORY- 3-HISTORY- 3

「焼肉どんどん」開店

そんなある日、1日の営業を終え夜食を食べに一軒の焼肉屋に1人で入りました。その店は汚い、まずい、無愛想、おまけにビールが冷えてない。最悪な焼肉屋だったのですが、そこから私のドラマが始まりました。ふと閃いたのです。「こんな店でも営業してるんだ、じゃあこの店の逆をすれば流行るな!」っと。そうこうしているうちに「カウンターをメインにした焼肉、BARの様な女性1人でも入れる焼肉ってどうだろう?」と、お酒を飲みながらひたすら考えていたら酔っぱらってしまい、いつの間にか塩タンを頬にのせて寝ていたのです。
「ん!」とビックリしながらも塩タンが頬にくっついている自分を見て、プラス思考のと言いましょうか、なんでも自分のことが大好きな私は「焼肉をやりなさい」と背中を押されたような気がしました。今でもはっきりとその時のことは覚えています。2年と1日目にしてきっぱりとBARを人に任せ、物件を見つけ、業者探しに入りました。ドリンクはBAR時代からの業者で良かったのですが、肝心のお肉、こればっかりは何のつながりもなく、御堂筋を走っている肉屋の車を片端から愛用していた自転車で追っかけ、車の前に立ちはだかり、無理矢理止めて話を聞いて頂きました。そこで8件の肉屋の社長と直接会い、工場を見て回り、BARの儲けで肉を買い、家のベランダに七輪をおいて試食しました。今思えば無茶をしたなと笑えます。

そして、1995年10月1日(晴天)
焼肉どんどんアメリカ村本店がオープンしました。

オープンメンバーは私以外、「喫茶ドン」や「BAR DON'S」に毎日のように通ってくれていたお客様で、接客がこんなところにも活きてくるんだなと実感しましたね。カウンターの接客っていつの間にか人生を共有しあう仲になれるんですよ。これがまたなんとも楽しく、これが私の生きる道なんだと心から思いました。お客様の喜ぶ笑顔、帰り際の「また来るわ~」の一言、気持ちがいいです。最高です。私には、街にいる全ての人がお客様に見え、電車の中でも名刺を配っていました「ポン引き焼肉」なんて呼ばれたこともありましたね。
そして、焼肉どんどんアメリカ村本店をオープンさせてから1年が過ぎようとした頃、ついに私の自信が確信に変わりました。
それはバーボンロック片手に、生レバをほお張る女性の1人客がいたのです。私は背筋が震えるほど興奮しました。 「こんな店を世界中に作りたい」と夢にまで見た光景がそこにあったのです。私の店作りは「元気」「カウンター」これに尽きます。人は何を求めお店にこられるのか?その答えはお客様にしか分からないが、「食欲を満たすことと同時にオモロイ(ハッピー)気分になりたいのではないか」と私は思います。

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代表取締役 今吉 純一

株式会社元気ファクトリー
代表取締役 今吉 純一(いまよし じゅんいち)

1961年10月23日、福岡県北九州市生まれ。
大阪あべの辻調理師専門学校卒業。19歳でパリに渡り、カウンターごしに会話を楽しむカフェ文化の魅力に触れる。1995年、カフェのカウンター文化を焼肉店に取り入れ、女性が一人でも焼肉が楽しめる『焼肉どんどん』をオープンして大ヒットさせた。以後は焼肉業態だけでなく多業態に進出する。飲食業界では「浪花の妖怪」と呼ばれ、国内はじめ海外からも注目される経営者の一人。

「浪花の妖怪」が見る夢

「浪花の妖怪」が見る夢

今吉 純一
著者:会津 泰成
出版:元気ファクトリーメディア

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